「それって器用貧乏じゃない?」
私は時々こんなことを言われます。
学力で国立大学へ進学、卒業し、体育会の運動部で体力と根性を磨き、ギターもベースもキーボードも歌も演奏でき、作詞作曲編曲で多くの案件をこなしています。電子工作もやるからエフェクターも自分で作るし、プログラミングやデザインも齧っている。
特徴とするものが多い中、どれもその界隈でトップには遠いことは認めます。
「何か一つのことに一点集中すべき」
その主張も、もっともです。
だからこそ、「器用貧乏」と揶揄されてしまうこともあるでしょう。
そう言っていただくのは自由です。
でも私からは、こう言います。
「余計なお世話だ」
結論:バランスさえ自分で作ればいい
私は、やりたいことは全部やりたいんです。
必ず迎える死というゴールまでに、なるべくやりたいことをやっていたい。
そのためには、やりたくないことに割く時間なんてないんです。
ただ勿論、時間の制限があります。
なので大事なのはバランスです。
全ての事柄に優先順位をつけるし、かと言って何かに偏らないように時間やリソースの配分をします。
結局自分が満足すればいいんだから、最高に自分が楽しんでやれるバランスをとって行けばいいだけです。
器用貧乏と言ってくる人に裕福な人がいない
なぜ「器用貧乏」などというネガティブなレッテルを貼られるのはなぜでしょう?
私はやりたいことをしているだけなのに、それがさも上手くいっていないかのように言われるのはなぜでしょうか?
一言、シンプルに、余計なお世話です。
それにこんな言葉、裕福で何かを貫いて成功している人に言われたことがありません。
聞くに値しない言葉だということがわかります
戦略的な一点集中はあり得る
もう一歩踏み込んで、人生においてやりたいことは全てやるスタンスと、もう一つの戦略があります。
ある時期は何かに一点集中する方法です。
私たちは、周りを多くの人間に囲まれ、社会の中で生活しています。
私たちの活動は、社会の影響を大きく受けるし、逆に社会に影響を与えます。
そのことを考慮すると、ある時期に何かに一点集中するのは得策であると言えます。
例えば、私はプログラミングがやりたくてしょうがないのですが、それを老後のAIが発達しまくって人がそんなにプログラミングをしなくなる時代より、今世界的にプログラマーが足りていない状況のタイミングに注力するのは賢い戦略だと判断します。
でもこれって、他のことを捨ててる訳ではないですよね。
器用貧乏なんて単なる僻み
以前、菅野よう子さんへの何かのメディアのインタビューで、彼女も売れるまで「器用貧乏」と呼ばれていたけど、それを跳ね除けて大作家への道を進まれた、というエピソードを読みました。音楽について様々な造詣をお持ちだからこそ、成功につながったとも言えるのではないでしょうか。
器用貧乏がダメなら、不器用金持ちになれ?
その理屈を乱暴に押し付けるのは、単なる僻みだと思います。
今の日本は、生きることにはそんなに困りません。
世界中でも、徐々にそうなりつつあります。
やりたくないことを、我慢して続けるのは、その人の選択です。
失敗を恐れず、僻みの言葉も跳ね除けて、色々なことにチャレンジする人を私は応援しています。
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