「よくわからないもの」について

アート

正解と偏見

以前、現代美術館でインスタレーション作品(展示室に、ただの流木だけが、ポツン置いてあるようなやつ)を見たことがあります。「これが現代アートか」と驚いたとともに、その意味は全くわからず、頭に浮かんだのは「ええっ、でも俺も流木拾ってきて置けばアートになるん?これの意味?美しい?え?え?」という困惑だけでした。

不思議とこの体験は記憶に残っていて、私の心に引っかかっています。立派な建物の中、人々が入場料を払ってまでわざわざやってきて、広めの部屋にポツンと置かれた流木を見る。これの意味がさっぱりわかりません。アートとか、芸術とか、音楽をやっている身でありながら、そこに自分なりの答えを見いだせず、ずっとモヤモヤしていました。

正しいこととは何なのか?いいものと悪いものの違いは?みんながいいと思えばいいもの?自分が人と違ってたら偏見?こういったキリのない思考の迷路に迷い込んでしまうキッカケが、この出来事に詰まっているように思います。

現代アート

私は絵や彫刻などの芸術について、正直よくわかりません。歴史的な西洋美術の絵画とかは美しいと思うし、ゴッホの絵を生でみたときはすごいと思いましたが、何がどうすごいのかを説明することはできません。

そして更に私を困惑させるのが、現代アートです。一般的な美しさから離れ、私自身が「みたい」とも「ほしい」とも思わない、そんな作品が重宝され、世界的に価値があるということに、理解が追いつきません。

しかしこれが、また別の思考の出発点となりました。それは、「わかること」がそれほど重要なのか?ということです。人物や風景を精巧に描写した絵画は素晴らしいと思うし、「君の名は。」などの新海誠監督作品が見せるアニメ絵は本当に美しいく感動します。そういったわかりやすいものだけがいいものか?それ以外は価値がないのか?という問を自分に立てるきっかけにもなりました。

わかることを求めすぎている

私達人間が、クイズや謎解きが好きなのは、わからないことを自分で理解できると快感を覚えるからです。そういった意味で、勉強は本来楽しいものであり、人間の根源的な欲求を叶えるものでもあります。

そして、私達は、成長していく中で、「正解を求める」ことをつねに是として生きてきています。試験ではいかに正答を導き出せるか。仕事ではつねに正しいことをして結果を出せるか。豊かになって幸福になりたい、と思うためには必然の過程ではあるものの、それは一つの手段でしかないこともまた、見落としがちな事実ではないでしょうか。

世の中の常識、マナー、ファッション、貨幣、法律など、そもそも地球上に存在するものではなく、人が勝手に作り出したものにすぎません。私達は自分たちが作った囲いの中での正否の判断を常に強いられていて、その中で物事を考えます。しかし、本来、世の中はわからないものだらけです。昨今、国内の新型コロナウィルスの感染拡大については、多くの専門家や発信者たちがその原因や予測を立ててきましたし、対策を講じ、現在では僅かな感染状況に収まってきています。関係者の皆様の尽力に感謝は尽きないし、この状況は明らかに喜ばしいことではありますが、もはや「人流」とか「感染源」とか「要因」とかの説明には無理が生じています。コロナという自然現象を「理解できる」「(人間の力で)制御できる」「そこに正解がある」という前提が、そもそも問題があったのではないか、と思わざるを得ません。情報発信をする側も、それを受け取って判断や批判をする側も、もっと冷静で謙虚な姿勢でいないと、実際におこっていることを歪めて見てしまう危険性があるように感じました。

まとめ

「よくわからないもの」を目の前にすると、ちょっと気持ち悪い感覚、落ち着かない感覚になるのは人間の性質としてしょうがないものだと思います。しかし、世の中に起きていることは、全て「わかるもの」でできているわけではなく、混沌としていてゴチャゴチャに混ざり合っているもので、むしろ「わからない」ことが自然な状態とも言えるのではないでしょうか。

このテーマについては、全くの素人が現代アートと絡めて書いていますので、間違いなどあるかもしれませんが、あくまで一個人の見解としてお読みいただければ幸いです。何かご意見やご指摘があればぜひお願いいたします。私自身も勉強になります。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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