価値ある苦労と、無価値な苦労。
「若い頃の苦労は買ってでもしろ」ということわざの意味は、
「若い頃に苦労する経験は、あとに役に立つから、積極的にそういった選択をするべき」
という内容で、特に若い人に向けて、安易に楽な道を選ばぬよう諌める言葉です。
昭和のイケイケドンドン高度成長時代の我が国だったらまだしも、このご時世、今にもアレルギー反応を起こしそうなこの言葉には、当然ながら賛否両論あります。
「苦労を経験して、より人間は成長できる」という主張も理解できますが、一方「わざわざ苦労しなくても、何事も効率をめざしてラクな選択肢を選ぶほうが得策」という主張も真っ当だと思われます。なぜこの言葉は、極端な支持と反対が両立してしまうのでしょうか?
そもそもこの言葉、誰だって避けたい「苦労」を、わざわざ自分からすすんで選べという、インパクトの強さが印象的ですが、主張そのものの対象が大きく意味が曖昧なため、話者や受け手にとって意味あいが変わってくる、という問題点があります。
一番の問題は、「苦労」という言葉です。人間が直面する苦労は数え切れないパターンが存在します。学者や研究者が歴史的な発明や発見をするために、多くの試行錯誤を重ねることも「苦労」といえますし、一般的なサラリーマンがブラックな会社で生産性の低い仕事に長時間従事することも「苦労」です。こうやって「苦労の場合分け」をしてみると、十把一絡げに「苦労が絶対的に良いもの」とは言えないことがわかります。
では私達は、この言葉を扱う上で注意すべきことはなんでしょうか?
それは、苦労を「価値ある苦労」と「無価値な苦労」とに判別することです。ここでの価値の有無は、「自分や他人に対して、それが直接的か、間接的か、時間的にすぐか、あとか、いずれにせよ大きな見返りをもたらす」か否かで判別できます。後の自分の成長につながる苦労や、誰かの役に立つ苦労ならば価値があるといえるし、そうでないならば骨折り損の「無駄な苦労」と言えると思います。
ゆえに、私達に必要なのは、苦労の価値の判別です。・・・ところがこれが一筋縄ではいきません。明らかに価値が判別できる苦労もあれば、「その時点では、後に報われるかわからない」苦労だってあります。そんなときのために、私達は日々情報を入手し、知らないことを学び、人に相談し、お互いに協力しながら判断材料を蓄えていく必要があります。
人の一生は有限です。無駄な苦労をしている暇はありません。しかし、苦労から生まれる価値があるのもまた事実です。苦労の価値は、「その苦労が価値を生むか」というモノサシで測れば、よりよい選択をとる精度を高めることに繋がるでしょう。
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