都市計画に感じた疑問(2):正しい価値観に関する議論

社会

都市計画が目指すもの

前回の記事では、私が学生時代に専攻していた都市計画について、当時より疑問に思っていたことをまとめました。

今回は都市計画の目的について思ったことを書きます。

都市計画は、人々が生活する街をよくしていこう、というのが大きな目的です。

人間の歴史の中で様々な文明が誕生し、やがて技術革新によって急速に生活が変化していく中で、人が一箇所に大量に集まったり、自然を利用したり壊したりすることで様々な問題が生まれてきました。

誰もが自分勝手に行動すると、私達が生活する街は無秩序に荒れてしまい、最終的にはそこで暮らす人々に不利益が生じます。だから、区画や道路を整備したり、ルールを作ったりすることによって、大勢の人にとって望ましい街を作ることが、都市計画の大きな目的です。

私は、この分野の趣旨に大いに賛同しつつも、一方である疑問も浮かびました。

それは、街がどんな状態であることが「正しい」かという部分です。

真・善・美の判断

例えば、産業革命後のパリは、人口が密集するにも関わらず、上下水道などの都市インフラが脆弱で、不衛生極まりない状態でした。それをオースマンという当時の市長が強権的に街を改造し、現在の美しい町並みのパリになっていきました。

誰だって街が不衛生な状態は好ましくないはずです。そして美しい街並みは、住む人にも訪れる人にとってもいいものであるのは間違いないでしょう。

一方で、私達一人ひとりは、異なった価値観を持つ生き物であるのも事実です。

例えば、日本の田舎のような田園風景が好きな人もいれば、パリのような高さや外観が統一された町並みが好きな人もいれば、マンハッタンのような高層ビルが立ち並ぶ大都会が好きな人だっています。

美しいもの、善いもの、正しいものなどの価値観は、多くの人で共通する部分もあれば、異なっていることだってあります。そんな中で、都市計画は、街のありかたを「ある一つの価値観」を採択しなければいけません。それはオースマンのように権力で強引に決めることもあれば、いまの日本のように議会制民主主義で選ばれた政治家が決定する場合もあります。

このように、極めて個人的な価値観からくる判断を、その議論を飛ばして「これが美しく、正しい」と決めつけて議論されることが、都市計画の分野では少なくないように感じます。権威のある人が「都市のあり方」について述べたものは、果たしてそれが遍く人々すべての「都市計画の正解」としてしまっていいのでしょうか?

銭湯の湯船の最適な温度?

都市計画というスケールの大きな分野では、それに関わる人があまりにも膨大で、すべての人が満足するような答えはないと言っても過言ではありません。ちょうど、銭湯のお湯が、人によっては熱すぎたりぬるすぎたりするように、多くの人で共有するものは妥協的な一点を定める必要があります。

「低利用地」や「未利用地」といった言葉が都市計画の分野ではよく使われます。低層の老朽化した建物が密集している地域は、そこに複合的な大きな施設を建てることによって、多くの空間が生まれ、人が利用できる「価値」が生じて「高度利用」されると表現します。確かに、土地は限りのあるもので、そこをうまく利用することによって、多くの人が便利に使えることが理想と言えるでしょう。しかし、それを望む人もいれば、また望まない人だっているのも事実です。だからこそ再開発の用地買収などは難しく、事業に何年もかかったりする話なのですが、そこでは何が正しくて何が悪いのか、関わる一人ひとりの価値観を蔑ろにすることは決してあってはいけないことになります。

まとめ

見知らぬ土地を歩くと、その街がどのような構造になっていて、どんな建物が建っていて、どんな人が住み、どんな人が集まるのか興味が湧いてきます。それは、長い時間をかけていろいろな人の意思と力が作り出した、生々しい人間の営みの産物です。

多くの人の幸福な生活に寄与するための都市計画はとても大切です。しかしそこに、「幸福」や「美しさ」や「正しさ」についての議論がなくては、誰かの独善的なものになってしまう危険性もあります。都市計画が本当に対象とすべきものは、土地やコンクリートではなく、私たち人それぞれの、生活と意志のあり方です。

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