「説明不足」は自省の言葉

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相手にわかってもらう努力と、相手をわかろうとする努力

世の中はとっても複雑でわからないことだらけです。学校の先生やおうちの人が教えてくれることは大切ですが、とってもそれだけじゃこの混沌とした世界で生きていくには不十分です。

だからこそ、今もあちこちで「説明不足」という指摘や「説明責任」という言葉がよく使われます。然るべき人が、知りたい人に向けて、きちっと説明することはとても大事です。

しかしここで、「説明」という行為を2つの立場に分けて考えてみるとどうでしょう?一方は、自分が伝えたいことを誰かに向かって説明する側です。もう一方は、誰かの説明を聞く側です。そして説明不足とか説明責任とかは、「説明する側」に向けられる言葉ということになります。

説明する側の目的は、相手にその内容を理解してもらうことです。ですが、そこには制約があります。例えば説明に許される時間や文量、また説明を受ける側の知識などです。自分が説明して相手に伝わるかどうかは、自分の説明の力量もさることながら、こういった制約によっても影響を受けます。それでも、説明する側としては、その目的のために最大限努力しなければいけません。「説明不足」というのは、説明する側が自身に向けて内省する言葉であり、その目的のために臨機応変に対応し、相手にわかってもらう努力を続けなければいけません。

一方、説明を受ける側は、相手の言っている内容を受け取って理解することが目的となります。このとき、自分が理解できないときに相手に対して「説明不足」と批判することがあります。これは前述の通り、説明する側の「説明が足りていない状態」もあれば、逆に受けて側の知識が足りずに理解できない状況も当然あり得ることになります。小学生が中学校の数学の教科書を読んでも内容を理解できないのは当然で、それが中学の教科書が「説明不足」であるということにはなりません。

以上のことから、説明という行為は、説明する側と受け手側のお互いが影響し合うものであるため、理解が及ばなかったときに「説明不足」という一方的な言葉だけで片付けてはいけません。説明する側はもちろん、最大限に説明が足りるようにすべきだし、逆に受け手側は、説明する側の意図を理解しようと努力するべきです。「わからない、知らない、教わってない、ちゃんと説明してよ」という態度は、建設的なコミュニケーションを阻害します。人間誰しもわからないことは必ずあります。そんな自分に対してオープンになり、知識を深めようとする努力と、相手の言うことを理解しようとする努力を続け、わからないことには「説明不足」と一方的に批判しないようにする姿勢が大切です。

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