どちらかを生かす選択をすれば、どちらかが死ぬ結果となる。
有名な思考実験の一つに「トロッコ問題」があります。前提は以下の通りです。
–制御不能なトロッコの先には5人の作業員がいて、このままでは全員が轢かれて死んでしまうという状況。しかし、その手前のポイントを切り替えることによってトロッコの進路を変えることができるが、変えた先には別の作業員1人がいる。この際、何もせずに5人を見殺しにするか、ポイントを切り替えて5人の命を助ける代わりに、別の一人の命を犠牲にするか、どちらの判断をすべきか。(これは概要だけですので、もっと細かい条件は省略しております)
これは今なお「正解」はないとされています。単純に助かる人名の数だけに着目すれば、ポイントを切り替えることが正しいのですが、それは本来死ぬことのない人の命を犠牲にするという選択になります。また、この5人と一人がそれぞれ年齢や性別や社会的な立場が違ったらどうなるでしょう?誰しも「これが正解」と言い切れる答えを出せないような、頭を抱える話です。
「ドキドキ2択クイ〜〜〜〜ズ!!」
さて、現在進行系の伝説的マンガ「HUNTER×HUNTER」の序盤、ハンター試験編でも似たような話が登場します。
ハンターになるための本試験の前には予備試験があり、そこで主人公たちの前にあらわれた不思議な老婆とその村人たちは、クイズによって受験者のテストをすると言います。
「どちらか一方しか助けられないとき、母親を助けるか恋人を助けるか」
このクイズの正解や物語の顛末は、漫画やアニメをご覧になっていなければぜひ見てほしいのですが、要は「明確な基準をもてない重大な決断」に対する選択の思考を、主人公たちを通して読者に問うています。(ハンターハンターって、キャラクターや演出の魅力ももちろんすごいんですが、こうした「答えのない問題」的なのを巧妙に織り交ぜてくるところが、私達の心の中に臨場感をもたらす上手な演出だと思っています)
他にも
このように、ざっくりといえば「誰かの命を犠牲にして、誰かの命を助けることの是非」「命の優劣や優先順位」みたいなテーマを扱った話は他にも多くあります。
古代ギリシアの哲学者が考えたとされる「カルネアデスの板」、藤子・F・不二雄先生のSF短編「カンビュセスの籤」、アメリカのSF作家の短編「冷たい方程式」などが有名です。
多くの思想家、哲学者、物語作家が扱うテーマであり、その著作を読んでみると、いろいろな考え方の発見があります。あくまでエンタメとしてのホラー的な要素と、教養としての哲学の勉強にもなるので、気になる方はぜひ関連書籍を読んでみるのをおすすめします。
道徳、正義、価値観
今回取り上げた話題は、人命にかかわるハードな内容です。私達は基本的に「人の命」が何よりも大切だと考えていて、それを天秤にかけることは非常に難しいことがわかります。
ただ、人は意思を持って「選択」する力がある異常、人命に限らず何かを選びとる場面に遭遇します。一方を選べばもう一方を放棄するというトレードオフの関係があるとき、何を選ぶのが正しいことなんでしょうか?
その基準となるものが、道徳だったり、正義だったり、それぞれの内面に持ち合わせる価値観に集約されるということができます。
・・・ただ、それを言い出したら、私達の社会は成り立ちません。みんながみんな、自由な価値観で物事を判断していったら、世の中はグッチャグチャになっていきます。何千年という長い歴史がそれを証明しているからこそ、今は法律とかをメチャクチャたくさん作って、なんとか多くの人の合意形成を図って、多くの人が幸福になり、不利益を被らないような仕組みを作ろうとしています。ただそれも完璧というわけにはいかず、まだまだ人類規模で試行錯誤の実験をしているとも言えるでしょう。
まとめ
「命の選別」のような重大な決断を迫られるシーンなんて、現代の私達には滅多に訪れない事態です。しかし世の中には確実にそのような現場があり、人は決断を迫られます。大きく捉えれば、自分の所属するコミュニティ、会社、地域、家族、そして自治体や国まで、人の集まりの決断には私達一人ひとりが何かしら関与しています。私の考えとしては、「そんなの知らない、自分には関係ない」という態度を取れるのは、未成年までだと思っています。たとえ間違っていてもいいし、他の人と違ってもいいし、実際に決断をする立場にならないとしても、「自分はこういう理由でこう考える」という意見をもっておくことが、社会に参加する一員として必要なのではないでしょうか。
コメント