他人の存在を考える
自己中な人って嫌ですよね。学校でも社会でも自己中なのはよくないことだって誰でも知っています。
ところが、逆に、自己中だと言われたり、言われることを恐れて萎縮してしまうこともあります。本当は自己中ではないのに、悪者扱いされるのは不本意です。ではなぜそんなことが起こるんでしょうか?
理由としてはそもそも、自己中という言葉の意味が、人を非難するために都合のいいように誤って解釈されていることが挙げられます。
自己中とは、
「《「自己中心的」の略。「ジコチュウ」と書くこともある》何事も自分を中心に考え、他人については考えが及ばないさまをいう。自分勝手。利己的。」
goo辞書より
上記のような意味合いです。自分を中心に考えることと、他人について考えが及ばないことが含まれています。
例えば、ゴミのポイ捨ては自己中な行動といえます。ゴミを自分で処理するのが面倒だから、その変に捨てる。街を汚して他の人が迷惑したり、誰かが掃除することを考えないので、自己中に合致します。
では、こんな例はどうでしょう?
とある中小企業で、7月に暑気払いが企画されました。70代の社長はもちろん、50を過ぎた管理職の人たちがやる気マンマンです。そこで20代前半の若手社員が、参加を拒否しました。この人は自己中でしょうか?自分以外の会社の人たちに考えが及ばない、自分勝手な人なんでしょうか?
(もちろんケースバイケースですが)私はこれを、自己中とは考えません。強いて言うなら自己優先です。一般的な感覚ならば、所属する会社の人たちと仲良くやって、協力して仕事をしていく姿勢は不可欠ですし、飲み会という場も貴重な機会です。一方で、飲み会に参加すれば、自分のリソースを消費します。参加費、参加している時間、翌日の体調、年上に気を遣う心労・・・これらは当然、参加することのコストとして考えられるべきものです。そのうえで、自分のリソースを優先して参加を拒否することは、自己優先として尊重されるべき選択と言えます。
ただし、この例において、拒否する際に全く周りの会社の人のことを考えていない場合は、自己中とも呼べる判断とも言えます。そこは曖昧な部分ですが、本人の気持ちや姿勢次第といった面もあり、十把一絡げにどちらかと割り切れるものではないことを付け加えておきます。
他人のことを考えない「自己中」は改めて、他人のことを考えつつ自分を大切にする「自己優先」の姿勢はしっかりと維持しておくことが大切です。もし人間関係に息苦しさを感じたときに、このことが何らかのヒントになれば幸いです。
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