「苦労せずにうまくいく」ということの正体について
一億総中流でだいたいみんなが豊かだった時代を知らない私世代としては、「格差」や「上級国民」や「早期リタイア」なんていう言葉が取り沙汰されるのも納得できます。頑張ったってそれに見合ったものが得られるという実感が持てないのが、今の現役世代や若者の本音ではないでしょうか?(これに関して私の意見は少し違いますが、今回は割愛します)
そんな中、「ラクしてうまくいく方法」や「頑張らない生き方」という考え方が多くの人の心に届くようになります。そういった発信をするインフルエンサーも多いです。「努力」なんていう泥臭いことをせずとも「もっといい方法があるよ、でも君が知らないだけだよ」なんて言ったり、「頑張らないで生きる方法があるよ」という伝え方をする人や本が人気です。
果たしてこれは、今の閉塞感のある世の中での時代を反映した真理なのでしょうか?それとも注目を集めることが目的で実態とかけ離れた嘘っぱちでしょうか?
結論として、これは「努力の定義」があやふやだと、答えは出ません。「どっちとも言える」と思います。なので、「努力」という言葉の意味を、ここでは大雑把に二種類に分類して考えてみます。
まず一般的にイメージされる努力とは、受験勉強や資格・試験の勉強などが挙げられると思います。本当はやりたくないけど、頑張って自分を律して自己の知識やスキル向上に励む行為です。これは不要とまでは言わないものの、「苦しいことを我慢して見返りが得られる」というのはバランスが悪いという印象です。特に、自分がやってて何も楽しくない、やりがいを見いだせないものについて、お金や地位などのわかりやすい見返りを求めて頑張る「努力」については、今はだいぶ労力のコスパ(?)が悪いし、今後ますますその傾向は強くなっていくと思います。
そして「努力」の別の見方として、単純に「膨大な時間と手間を費やすこと」という捉え方もあります。最もわかりやすい例が「ゲームが楽しくて、やりまくって、その結果ゲーム実況やeスポーツで稼ぐ」みたいなパターンです。この人達はめちゃくちゃゲームに時間と労力を費やしているので「努力している」とも言えますし、そもそも楽しくてやってるなら「努力」と言えるかどうかも疑問です。何か自分が世の中に価値を与えられる存在になりたいと思ったなら、大抵の場合は圧倒的な時間と労力の投入が不可欠です。それを否定するような言説は嘘だと言ってよいと思います。
ちなみに私は本業の音楽について、これまで「努力をした」と自分で思ったことはほとんどありません。夢中になって膨大なお金と時間とめちゃくちゃ手間のかかることを延々と続けていますが、それはやりたいからやっているからであって、自分の嫌なことをやっているわけではないからです。これが傍から見れば「努力している」というように映るかもしれませんが、それは他人の問題です。自分がどうありたくて、自分がその目的と手段をどのように捉えるかが全てです。
とはいえ、何も考える下地がなければ、いろいろな人の言葉に惑わされてしまいます。私もまだまだ勉強中です。色んな人の言葉や本を、半身で聞く感じで、自分なりの意見を徐々に作っていくのがいいのではないでしょうか?大切なのは、常に基準を「自分の心の中」に持つことだと思います。
コメント