「コミュ力おばけ」になるヒント
みんな自分のことで精一杯な昨今、他人のことに気をかける人はそう多くありません。
特に都会や都心では顕著だと思いますが、私達は外出先で見ず知らずの人と会話することなんてほとんど稀です。お店の店員さんとのやり取りすら、決められた「セリフ」を言う店員さんと、無言のお客さんは、人としてのコミュニケーションを取っていません。
ところが、たまに「突然話しかけてくるおじいちゃん」に遭遇することもあります(おばあちゃんの場合も)。道端で、公園で、その他いろんな公共の場で突然知らない人に話しかけられるとビックリしてしまうものですが、相手は自然に会話してきたりします。(私の経験上、特に中学や高校で、学生服を着ているときに話しかけてくる人が多かったです。)
なぜあの人達は、こんなにも他人にフツーに話しかけることができるのでしょうか?
おそらくその理由は「コミュニケーションを求めている」ことと、そして「恥じらいがない」ことだと思われます。
私はコロナ以降、長く模範的な自粛生活をして引きこもりしていますが、当然リアルな人とのコミュニケーションは少なくなりました。自分ではそれでも大した問題ではないと思っていたのですが、いざ買い物でスーパーに寄ったり、運動のため温水プール施設にいったりすると、店員さんやスタッフさんに「話しかけたくなる」のです。元々、私は店員さんやスタッフさんには挨拶と返事をちゃんとするよう心がけていましたが、最近はより一層コミュニケーションを欲する気持ちを感じてしまいます。これがきっと、高齢になってコミュニティが少なくなったら、同様にどんな他人でも話しかけに行きたくなる理由だと感じました。
そしてもう一つ、生きていくうちに徐々に「恥じらい」が消えていくのも実感します。初対面の人と話すのに緊張するのは「自分がボロを出す」のを恐れるからです。気心知れた友達だったらいいのですが、それが全く未知の相手だと、自分の話していることが通じなかったり、相手と知識や価値観が違ったりしたときに、後ろめたい気持ちになってしまいます。ところが段々人生経験が積み重なると、「そんなことどうでもいい」という境地に至ります。相手と自分は別の生き物で、知識や価値観が違うのは当たり前だし、話してることが半分も通じないことなんて経験上「ふつうのコト」として認識します。そうなったら、どんな他人と話すことも全く怖くありません。初対面の相手と理解を深めることもあれば、自分が恥をかいてしまうこともありますが、そんなことはもうどうでもよくなります。これが、突然他人に話しかけるのに抵抗がなくなる理由だと考えられます。
このことからわかるのは、年配の人にとって「人と話すのは嬉しいこと」だということです。そこに生産性や価値観の共有など対して意味はありません(もちろん喧嘩や人格否定などはご法度ですが)。ただ、人としゃべるだけでも、満足なはずです。そして、人とのコミュニケーションにおいて、多くの(特に若い)人が気にする「恥ずかしさ」も、年齢とともに薄れていき、心配する必要のないものだということから、早いうちにそのメンタルブロックを取っ払うと、より多くの人とコミュニケーションがとれるようになり、自分の可能性を広げるきっかけが増えます。
コロナは思ったより長く続いていますが、そこから見えてくるものもあり、個人的にはとても勉強になっています。我慢するのに疲れてしまって問題を起こす人たちも気持ちもわからなくはありません。一方で、きちんとルールを守っている飲食店やイベント団体、感染症対策をしっかりするお店、そしてちゃんと我慢して自粛生活している人々は全く誰からも褒められませんが、それも今の世の中の「リアルな姿」なので、仕方ないように思います。連日メディアが不安を煽ったり、ネット民が炎上した人を叩いたりしてますが、目を向けるべきはもっと小さなコミュニティでお互いに協力しあっている人々ではないでしょうか。道端でおじいちゃんに突然話しかけられたら、おそらく内容は2割も通じなくてもいいので、会話できることを楽しみたいと思います。
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