「わかる」楽しさと「わかろうとする」楽しさ
例えば、友達と口論になったとき、なるべく話し合いで解決すべきだし、手を出すのはよくないことです。
ではその話し合いはどうするべきでしょう?ひたすら自分の主張を理解してもらえるよう説得する?相手の話を聞いて反論し論理的に戦う?一方的に怒鳴りつける?こう考えると、さっきのように明確な答えがあるわけではないことが想像できます。
世の中には、1+1=2のように、みんなが前提としてわかりきっている答えはそれほど多くなく、むしろ何が正解かわからないことの方が多いです。国の政治も満場一致の唯一の答えなんてないから、いろんな人が批判したり支持と不支持で対立したりします。
この問題は現在進行系でいろんな人が考えているようです。有名な話で「トロッコ問題」があります。トロッコが進む先には5人の作業員がいて、制御のきかないトロッコがこのまま進むとその5人を轢き殺してしまいます。一方でその作業員の手前には分岐点があり、その分岐レバーを変えればトロッコの進路を変えることができますが、変えた先には別の作業員が一人いて、今度はその人が轢き殺されてしまいます。あなたが、その場で、分岐レバーを変えるか変えないかどちらかしか選べないといった場合、何が正解なのでしょうか?5人をそのまま見殺しにするか、自分の行為によって5人の命を助け、本来死ぬはずのない一人の命を奪ってしまうのか。似たような話は漫画「ハンターハンター」のハンター試験前の課題でも描かれます。「母親か恋人どちらかの命しか助けられない、どうする?」という試験の問題で、その場合は「沈黙」が試験の答えだったのですが、果たしてそれが「本当に正しい答え」なのか?読者はトンチを楽しんだような、でもモヤモヤと答えの出ない問題を突きつけられたような不思議な感覚に陥ります。
実際にこうした究極的な問題に直面することは稀ですが、実際の世の中は「唯一無二の答えがない」もので溢れかえっています。これは例えば、映画や文学や漫画、アニメなどをみててもそうしたことがあるでしょう。丈を割ったようにスパーンと解決する、勧善懲悪ものは見ていて気持ちがいいものです。一方で、何が善で何が悪かわからないような複雑なテーマな作品はモヤっとしてしまいます。これは、どちらもエンタメ作品としてはそれぞれの表現の中で正しいといえます。心がスカッとしたい場合にはそういった作品がその気持を満たしてくれるし、モヤモヤを残す作品は、鑑賞した私達一人ひとりが「考える余地」を残してくれます。その考える余地を楽しみ、考察し、議論し、発見することもまた、娯楽としての魅力にあふれています。
学校でいい成績をとること。高い学歴をとること。よい勤め先につくこと。高い収入を得ることなど。こんな画一的な「よいこと」を提示されて育ってきた私達は、ついつい「単純な正解」を求めてしまいがちです。でも実際世の中はそうなっていません。主体的に考えて、自分なりの価値観を育てて、「良い」「悪い」を作っていかなければ、それはずっと誰かが規定した価値観に引っ張られて生きていくことになります。現実で何かを判断することはとても重く大変な作業です。でも避けて通れないときだってあります。それを楽しんで乗り切るために、普段から「答えのない問題」に思いを巡らす娯楽も楽しめるような度量も大事なのではないかと思っています。
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