スタートラインの違い

My Voice

比較しているあの人は、どこからスタートしているか?

「人はだれでも平等に扱われるべきである。そして社会のルールは万人に公平でなければならない。」

いまの社会は概ねこういったことが暗黙の了解とされています。言うまでもなく、これは、今なお「不平等」や「不公平」があるからこその問題提起です。このことには色んな立場の人が賛否両論様々な意見を述べていますが、まずはその前提を考えなければこの問題の議論は成り立ちません。

そもそも、事実として、私達はあらゆる面でスタートラインが異なります。

わかりやすい例だと、学業や運動能力はその典型で、同じ年に同じような地域で生まれた子どもたちが集められる小学校でも個々人の能力はバラバラです。生まれた時点でそのような人間の特性は違うので、「勉強」とか「運動」とかのものさしで見たら、私達はそれぞれが全然違うスタートラインに立っていると言えます。

さらに、子供が「高度な教育を受けられるかどうか」は、大部分が親の経済力に委ねられます。この日本という国の中でもその差はあるし、世界に目を向ければ日本の大体の家庭はかなり恵まれている方だと言えるでしょう。

ここで、自分の人生におけるある時点のパフォーマンスや成果などを、「その人の努力次第」と極端に割り切ってしまうことが危険なのがわかります。どんな分野でもそれぞれスタートラインが違うのだから、「その人の努力」以外の要素が人生に大きな影響を与えるのは言うまでもありません。能力主義と呼ばれる考え方は、努力次第で誰にでも「公平」にチャンスがあるという考え方の一方で、その結果についてはすべて責任をその人に押し付けられるという酷さもあります。

一方で、「生まれたときすでにある程度決まっている」という事実を引っ張って、「うまくいかないことの言い訳」にすることの是非も考えなくてはいけません。世の中で成功した人、活躍している人を目にして「あいつはいいよな、そもそも金持ちの家に生まれて、才能があるんだから」と僻み、自分が努力しないことの言い訳にする姿勢は果たしてどうでしょうか?現状に不満があってそれを変えたいと思うなら、同じレースではるか先のスタートラインにいた人と比較するより、自分にできて自分が目指せるゴールを見るほうがよほど建設的です。

スタートラインが人それぞれ違うという事実を踏まえると、極端な能力主義は部分的に間違っているし、人々の間で殺伐とした空気を生みますが、それを怠ける言い訳に使うこともまた生産性のない姿勢であって、周りもその人自身にもいい影響を与えません。「平等」だとか「公平」だとか、「努力」だとか「才能」だとか、それらは多様な文脈の中で意味をもつ言葉であることを理解した上で、自分で使うときにも、誰かが使ったのを聞くときにも、その意味をしっかりと吟味すべきです(そうしないと話が噛み合わない状態になってしまいます)。

コメント

タイトルとURLをコピーしました