「勉強ができること」と「頭がいい」こと

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「頭の良さ」はいろいろな要素がある

一般的に、「勉強ができる」人のことを「頭がいい」と表現しますが、これが現実に即していないことは多くの人が薄々実感していることだと思います。単純に学業成績がよいからといって、実際に仕事や生活の場面で情報を処理しきれなかったり、または学校の成績が相対的に低くても非常に頭がキレて世の中でうまく立ち回るひともいます。ではなぜ、「勉強ができる人」が「頭がいい」と短絡的に言われてしまいがちなのでしょうか?

これは、多くの人が学校教育を経験してきた中で、ほぼ「学業成績」だけが明確に可視化されて他人と優劣をつけられた指標だからということになります。よく公教育で言われる「偏差値などを使って優劣をつけないように」とか「成績順で比較をさせない」というのはおべんちゃらで(必要ないとは言いませんが)、大人はそうやって子供を管理します。

ここで、人間の本質に関わる重要なポイントがあります。それは、私達は自分の「知性を馬鹿にされること」に一番反感を覚えるという性質があるということです。なぜなら、人間とは自分の意識で考えていること自体であって、その考えを否定されるということは存在を否定されることと同義だからです。論破を目的とした人は相手を馬鹿にすることを言いますが、これは最も相手が怒って冷静さを欠く言葉がそれだからです。

こういった理由から、私達は自然に、「頭の良さ」という部分で序列を意識します。例えば、自分より頭がいいと思った人のいうことはよく聞こうと思うし、自分より頭が悪いと思えば上からの態度になってしまいます。なので、まだ経験の乏しい若いうちに可視化される「学業成績」というのが、頭の良さの指標として絶大な効力を発揮してしまうという理屈になります。

そもそも、「頭のよさ」というのは非常に広く曖昧な言葉です。単純に数学などの計算が得意なのか、文章を読み解く力が得意なのか、暗記が得意なのか、発想が豊かなのか、言葉が素早く出てきてしゃべるのがうまいのか、どれをとっても「頭がいい」と表現できそうな要素です。このように、「学校の勉強ができる」ことは、「頭がいい」という言葉に含まれるたくさんの要素のうちの一つでしかありません。したがって、勉強ができても他の部分が不得手な人や、他の部分に強みがあっても勉強ができない人は当然いるわけで、「勉強ができる」=「頭がいい」という関係に当てはまらないケースが発生することになります。

私は高校時代にわりと頑張って勉強して国立大学へ進学することができましたが、そこでもいろんな人がいて面白かったです。そして世の中でいろんな人と出会ううちに、必ずしも高い学歴の人が頭がいいというわけではないことを実感したし、自分の中にも「頭が悪い」部分をたくさん見つけることができました。「勉強ができないこと」が頭が悪いということにつながらない、そして「勉強ができた」としても頭がいいわけではない、ということが基本となって、自分を卑下したり、あるいは人を見下したりするような歪んだ考えを持たないような、そんな心構えが大切ではないかと思います。

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