『最後までやり通すのが偉い』という誤解

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手段自体に「良いor悪い」はない

最後までやり通す。

完璧にこなす。

これらは一般的に「美徳」とされることです。

一方で、

投げ出す。

途中で諦める。

中途半端に終わる。

これらは良くないこととされがちです。

ただし、ここにはある「誤解」が隠れています。

それは、「最後までやり通す能力」は評価できても、「最後までやり通すかどうか」は状況によってその良し悪しが違うからです。

例えば、高校で野球部に入って選手としてプレーするとします。日々の練習は大変です。部員がたくさんいても試合にレギュラーで出れるのは9人です。レギュラーとして活躍するのも大変だし、試合に出たとしても相手の学校には強いチームがたくさんあります。誰もが甲子園出場できるわけではありません。それでも、高校3年間を部活に捧げることは、「最後までやり通す信仰」からすれば正しいことになります。

ところが、長い人生の中で、高校生の時間というのはとても貴重な限られた時間です。そこで仮に野球部での部活動に長い時間を費やすことは、他の活動(野球以外のスポーツ、芸術、勉強、人との交流など)をする時間を差し出すことになります。それがその人にとって、いい場合もあれば悪い場合もあります。野球部で体を鍛えて忍耐力を培い、野球部の経験や人脈が今後の人生に役立つのであれば、レギュラー入りするとか試合の結果とかは別にその活動は大変意義があることです。一方で、高校を卒業したあとの人生で、例えば全く新しいビジネスにチャレンジしたり、芸術の分野に進んだりするならば、高校生の時間で野球に費やすよりも有意義な時間の使い方があったはずです。(そりゃ、「野球部をやった経験は決して無駄ではない!」なんて言うことはできます。どんな経験も無駄かどうかは捉え方次第です。そういう話ではなく、機会費用を考えたときに最も効用の大きい選択肢についての考えです。)

野球部の例で続ければ、例えばAさんは、「身体能力にすぐれ野球の適性も十分。入ったチームではいい指導者、練習環境、チームメートに恵まれ、試合では活躍し、その後の進路においてもその経験が十分に役に立つ。何より野球が大好き!」といった状況だとします。一方、別の学校のBさんは「身体能力はそこそこ、球技全般そこまで得意ではない。部活の顧問は名前だけで実質的な指導はOBのよくわかんない大学生。チームメートのやる気もイマイチ。そういえば、野球以外にもイラストとかに興味があるんだよな・・・」という状況だとします。Bさんは「それでも!高校の最後まで、やり通すことは素晴らしいことだ!」といって3年間その部活に捧げる道もあれば、「途中で切り替えて、部活をやめ、絵の勉強をしたり、他の新しいことに挑戦する」という道もあります。どちらが正しいとは言えません。しかし、「最後までやり続ける信仰」で思考停止になってしまうと、人生における他のチャンスを見過ごしてしまう可能性があるということは否定できないはずです。

自由な人生というのは大変です。自分で選ぶことには自分で責任をとらなければいけません。誰かが決めた価値観に従って、自分の選択を決断する「ふり」をすればけっこう楽ですが、それによって失われてしまうものもあります。人生において後悔のない選択をしたいと思うなら、当たり前だと思っている価値観も、自分の思いや気持ちと照らし合わせて、一度見つめ直してみることが大切です。

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