論点がずれて結論が出ない理由

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前提条件が違う

世の中にはいろんな人がいて、いろんな考えをもって日々を生きています。私達は一人では生きていくことが難しい生き物で、お互いに協力しあって社会を成立させています。だから、共通する決め事みたいなのが必要で、それが小さなルールやマナーだったり、法律だったりします。

ところが、そういった「共通の決め事」について、私達はよく揉めます。こうすべきだ、ああすべきだ、これが正しい、あれが正しい、というふうに。話し合ってみんなが納得して結論が出ることもあれば、なんとなく落とし所を探ってふわっとした答えを出したり、もしくは答えを出さずに問題を先送りにしたりします。なぜこのように、バチッと結論が出ないようなことがよく起こるのでしょうか?

このテの話題でよく出てくるのが、「あいつは賢い」とか「賢くない」とか、人の理解力のレベルで語られるケースです。複雑な物事を判断するときには、たしかに難しいことを考え抜く頭のチカラも必要でしょう。しかしそれは一部であり、それが全てではないと言えます。

共通の決め事で意見が割れる最も大きな原因は、それぞれの「前提条件」が違うことだと言えます。それはつまり、人それぞれ大事にしている考え方の元となることが違う、ということになります。これは自覚していることもあれば、無自覚な場合も多いと思います。

岡田斗司夫さんの著書「悩みのるつぼ」では、これを三価値という「思考ツール」の中で説明されていました。例えば路上のポイ捨てを許すか許さないかの議論があったとします。「個人が何をしようが自由」とか、「街にゴミが出ることは、清掃業という仕事をうんで、雇用の創出になり、社会的に意義がある」とか、「そもそも人としてゴミを捨てるようなことをしちゃだめでしょ」みたいな考え方のバラつきを例に出しています。これはそれぞれ、考え方のもととなるものが違います。「個人の自由」を尊重するのか、「最大多数の最大幸福(功利主義)」でみんなが幸せになる理屈を優先するのか、「人としてこうあるべき」てきな規範や美学を優先するのかです。きっとどれも正しいし、どれも人によって優先度合いが違うからこそ、こういったことは多くの人の中では決めにくいことになってきます。

本日は2021年4月28日です。日本では三度目の緊急事態宣言が発出され、新型コロナウィルス感染症対策として、飲食店の時短営業や酒類の提供を制限したり、民間の活動の多くが厳しく制限されるようになっています。「命を守るためには仕方がない」という意見や、「他の病気や事故に比べて著しくリスクの低い感染症に対する対策としては過剰だ」という意見もあります。それとはまた別軸で、政治家にとっては国内外との利害関係、政治家としての支持など様々な要因があった上で、今の判断がなされていることと思います。世の中で起きていることに疑問を感じたり、自分の判断で迷いが生じたときには、自分や他人がどのような前提条件にたって物事を考えるか、ということも視野にいれると、新しい発見があったり、落とし所の見つけ方のヒントになると思います。

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