偏ってないものなどない
時折、偏向報道・・・といったものが話題になります。
偏向報道(へんこうほうどう)とは、ある特定の事象について複数の意見が対立する状況下で、特定の立場からの主張を否定もしくは肯定する意図をもって、直接的・間接的な情報操作を行うといった報道のことである。(Wikipediaより)
要するに、いろんな考え方ができることについて、一つの側面を切り取って報じるやり方のことです。テレビなど多くの人がみて影響力を持つ媒体がそれをやると、見ている人の情報操作になってしまう。。。ということが問題視されています。
ただ、これ、本来はテレビだけでなく、ラジオ、新聞、ネット全てがだいたいやっています。「公平中立」を謳っていても、偏りが全くない・・・とは言い切れないのではないのでしょうか。
立場や考え方で意見や伝え方も変わる
そもそも何かを人に伝えるときは、情報を伝える側の立場や考え方がもとになります。公共の電波を使って公平な報道をするという”立場”の地上波放送、番組スポンサーからの広告収益をもとに情報を提供するという”立場”のラジオ。それらを批判して、真実(だと思うもの)を世に広めることで人々の役に立とうとする”立場”のブロガーなどネットメディア。
何かを報道し何かを伝える、ということは、それらメディアがまず情報を受け取るところから始まります。情報を受け取る段階で偏りが生まれます(世の中のあらゆる情報を均等に受け取ることは不可能です)。受け取った内容を解釈し、取捨選択し、事実と主張を交えて伝える内容を決めます。またこの段階でも偏りは生まれます。そして伝え方です。人は言葉そのものの意味や字面以上に、感情的なものを多く感じとります。例えば、新型の感染症の「新規感染者が◯◯◯人」という情報があったとして、神妙なトーンか、怒りがこもったトーンか、悲しそうなトーンか、あるいは希望を含んだ明るいトーンか・・・。情報を伝えるメディア側の、言葉以外の多くの情報も含めて、私たちは受け取ることになります。そこに一切の偏りがないことはあり得ません。
世界は意味づけして初めて成立する
大事なことは、全ての情報は何かしらの偏りを持っている、と認識することであって、それは自然なことだと思っています。
世の中をどう捉えるか、というのは非常に哲学的で奥が深い問題です。
ただし、間違えないことは、それぞれの人が見聞きしたり感じたりする世界は、それぞれの人特有のものです。AさんとBさんの別人が、それぞれ全く同じように世界を見て、同じ情報を同じように感じ取ることはあり得ないです。そこには必ず主観が含まれます。
Aさんには、Aさんが意味づけする世界があります。例えば、
「高齢化が進む日本、世界の競争から遅れをとる日本、理不尽なことや面倒なしがらみが多い日本、なんて嘆かわしいんだろう・・・・。」
これは、Aさんが今生きている世界を意味づけています。
一方、Bさんがこんな意味づけをするかもしれません。
「コンビニやスーパーやファストフードは、いつでもなかなか美味しいものが安く食べられる。服もユニクロとかで安くて質がいいものが買える。映画や音楽はサブスクで月1,000〜2,000円で一生かけても楽しみきれないくらいある。スマホゲームだって課金しなければ面白いのが遊び放題だ。日本はアメリカ、中国より経済力が落ちてきている・・・けど、それが何か問題が?私の給料も平均より少ないくらいだけど・・・別に他の人と比べなければ十分満足。歴史を振り返れば、一般的な人がこんなにラクに生きられる時代って、今までなかったんじゃないかな?感謝感謝。」
AさんとBさんは同じ日本に生きて、同じような暮らしぶりだとしても、見ている世界が全然違っています。
まとめ
偏向報道の問題は色々あります。それはそれでしっかり議論されるべきではありますが、今回の記事ではそれ以前の問題で、情報は必ずその人のバイアスがかかっていて、それを受け取る私たちもまた、個々人で違った受け取り方をするよ、ということをお伝えしました。
こうした考え方は、悪意を持った誰かの情報操作に抵抗できる力となります。
また、人と意見が違うときにも、感情的にならず、それぞれの主張に寄り添いながら、話ができるメリットもあります。言葉でお互いの落とし所を見つけ出さなければ、感情や暴力で争い合うしか無くなりますが、知性を持った私たちは、なるべくならそれを避けたいですね。
【本日のオススメ本】
コメント